あけましておめでとうございます(2025)
- Reed COMMON
- 2025年1月1日
- 読了時間: 8分
2024年も皆様に支えられながら、教室運営を続けて参りました。2025年も、引き続き温かく見守っていただけますよう、よろしくお願いいたします。
さて、今年2025年の「2025」は珍しい数なのですが、ご存じでしょうか。
2025=45²
ということで、1936(=44²)年以来89年ぶりの平方数の年なのです。次の平方数の年は2116年(=46²)年で91年後。なかなか体験できないことですので、この1年をしっかり楽しんでいきたいですね。
また、小学校で学習する九九の総和が2025であることも併せてわかります。九九は1×1から9×9まであります。その総和を考えると
1×1+1×2+1×3+……+9×8+9×9
=(1+2+3+…+8+9)×(1+2+3+…+8+9)
=45²
となるので、わかりやすいですね。
さて、今年も教室では次のような案内文を掲載しております。

今年もあいさつ文に「常山蛇勢」という、十二支にちなんだ四字熟語を使っております。
常山という中国の山にいた「卒然」という蛇は、頭を攻撃されると尾で反撃し、尾を攻撃されると頭が噛みつき、腹を攻撃されると頭と尾の両方で反撃したそうです。このことから、「欠陥や隙のないこと」を表します。
また、今回は蛇のイラストと共にリンゴのような果実も描き加えさせていただきました。リンゴと蛇と言えば、キリスト教の旧約聖書による『エデンの園』のイメージを思い出しませんか?
最初の人類であるアダムとイブは神から、「エデンの園の中央に生える生命の木と知恵の木には触れてはいけない。実を食してもいけない。」と教えられます。しかし、蛇に唆されたイブは知恵の実を食べてしまいます。次いでアダムもイブに言われるがままに知恵の実を食べ、知恵をつけます。これを知った神は激怒。人類はエデンの園から追放され、蛇も人から忌み嫌われ地を這いながら暮らしていくように命じられてしまいます。
そんな知恵の実、一般的にリンゴだと言われていますが、実はその正体はわかっていません。知恵の実を食べ、自らが裸であると恥じたアダムとイブがイチジクの葉で身体を隠したことからイチジクだという説もありますし、バナナやオレンジだという説もあります。
私はこのエピソードは、生物の進化について表しているのではないかと思っています。知恵の実を食べた種族は、遺伝子を次の代に託し、成長しながら種族としての進化を成している。一方で生命の実を食べた種族は同一遺伝子を保存し、それぞれの個体が生き続けられるようにしているのです。
実際、世界各国の神話において、「バナナ型神話」と呼ばれる「二者択一を迫られた人類が不変を選ばなかったために、人類には寿命があると説明する話」があります。日本神話においてはイワナガヒメとコノハナサクヤヒメの話がそれにあたります。天孫ニニギが迎えた2人の妻イワナガヒメとコノハナサクヤヒメですが、ニニギは美しいコノハナサクヤヒメだけを愛し、イワナガヒメは送り返してしまいます。コノハナサクヤヒメは「木の花咲く」つまりキレイに咲くがいずれ散ってしまう花を、イワナガヒメは「石長」つまり面白味はないが永くその形を保つ石を、それぞれあらわしているのです。旧約聖書『創世記』におけるエデンの園のエピソードもこの類型だと言われています。
もし、本当に食べてはいけない実なのだとしたら、神が不用意に置いておくというのはおかしいのではないかと思いますし、もしかしたら、各種族にエデンの園の試練を与えていたのかもしれませんよね。つまり、人間は成長し進化するために知恵の実を食べたのだとも言えます。
私たちが生きていく上での最大の成長、それは勉強だと考えています。私たちが勉強して賢くなるのは、人間に与えられた使命であり、宿命なのではないでしょうか。
さて、前述のエデンの園に登場する蛇は悪魔サタンの化身だと言われることもあります。しかし、聖書の記述において蛇は必ずしも邪悪を表しません。
旧約聖書『民数記』の中で、モーセによって作られた青銅の蛇「ネフシュタン」は、仰ぎ見るだけで毒蛇に噛まれた傷が癒え、その命が永らえさせました。また、イエスの象徴としてもネフシュタンは用いられており、蛇が脱皮することから「復活・再生」の象徴とも考えられています。
正教会においては、高位聖職者の用いる権杖にもネフシュタンが掲げられており、権威の象徴でもあるのです。
また「アスクレピオスの杖」、「ヒュギエイアの杯」にも蛇のモチーフが入っています。
ギリシャ神話の神アポロンは自らの使いとして、1羽のカラスを従えていました。そのカラスは、アポロンの恋人で人間の娘であるコロニスとの連絡係を務めていましたが、ある日アポロンにコロニスが浮気をしていると告げます。アポロンの双子の姉であり、狩猟と貞潔の神であるアルテミスがコロニスを射殺してしまいます。しかし、コロニスの浮気というのはカラスが早とちりをした、もしくは道草を食っていたことを誤魔化すためについた嘘であったらしく、全くの事実無根のことでした。真相を知り怒ったアポロンは、罰としてカラスから人の言葉を奪い、美しい白い羽を真っ黒に染め上げました。死の間際にコロニスはアポロンとの子を身ごもっていることを告げたため、胎児を取り上げてケンタウルスの賢者であるケイロンに預けます。
この子供こそがアスクレピオスです。
アスクレピオスはケイロンの下で学びながらすくすくと育ちます。特に医学においてはケイロンを凌ぐほどの知識と技術を持ち、ついには死者をも蘇らせるほどの医者になりました。それに不満を抱いたのが冥界の王ハデス。死者の蘇生は世界の秩序を壊すものだとしてゼウスに抗議。ゼウスはアスクレピオスに雷を落として殺してしまいます。しかし、確かな医療の腕を認められ、死後に神として迎えられることになります。
ヒュギエイアはアスクレピオスの娘であり、彼女は特に薬学に対しての功績を残します。さらに子孫には「ヒポクラテスの誓い」で有名な医学の父ヒポクラテスがいるとされ、医学に精通した血族であったことがうかがえます。
そんなアスクレピオスは蛇を巻き付けた杖を使っていたとされており、死後天に上げられた際はへびつかい座になったとされています。同様にヒュギエイアも蛇の巻き付いた杯を持っていたとされており、それぞれが医学と薬学のシンボルに使われています。世界保健機関(WHO)のシンボルとして用いられているのが有名でしょうか。
前述のアスクレピオスの杖と混同されやすいのが科学の神ヘルメスが持っていたとされる杖「ケリュケイオン」です。これもギリシャ神話のお話です。
アスクレピオスの杖に巻き付く蛇は1匹ですが、ケリュケイオンには2匹の蛇が巻き付いているとされています。これはヘルメスの権威の象徴であり、同時に水脈を探すための占いにも用いられていたそうです。
アスクレピオスの杖やヒュギエイアの杯が医学や薬学のシンボルとして扱われているように、ケリュケイオンは日本でも学術のシンボルとして使用されています。有名なところで言えば、一橋大学の校章がケリュケイオンですね。
日本においても蛇は神聖視されている動物の1つです。
蛇が脱皮することから、復活・繁栄の象徴として、農作物を荒らす害虫やネズミを食べることから、豊作の象徴として崇められてきました。特に白蛇はその希少性から神聖視されることが多いですね。
中でも、水神としての性質が蛇に与えられることもあります。去年の記事でも少し書きましたが、蛇や龍は水との繋がりがよく出てきます。この理由として、そもそも蛇が水辺に生息していること、水の神「弁才天」の使いとして蛇が扱われることが多いからです。
そもそも弁才天は、ヒンドゥー教において「サラスバティ―」と呼ばれる女神で、彼女と蛇の繋がりは基本的にありません。日本においてのみ弁才天の使いや化身が蛇とされているのです。
日本において弁才天と蛇が結びつけられたのは「宇賀神」と呼ばれる出自不明の蛇神と習合されたからであると言われています。宇賀神は蛇の体におじいさんの顔を持つ神であり、財をもたらすとされる神です。これらの神々がなぜ習合されるに至ったのかは私にはわかりませんが、中世以降の日本では頭の上に宇賀神を乗せた弁才天「宇賀弁才天」が広く信仰されていきます。
私たちの住む滋賀県の、琵琶湖に浮かぶ竹生島は「日本三大弁才天」と呼ばれていますが、そこに祀られている弁才天も宇賀弁才天となっています。
弁才天は水の神であると同時に、芸術と学問の神でもあります。西洋だけでなく、日本でも蛇は学問と結びつけられているのですね。
来年の十二支は「巳」、来年の干支は「乙巳(きのとみ)」です。十二支と干支の違いを知らない方は多いですが、干支と言うときは「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の十干をつけなければいけません。(ちなみに十干と十二支の最小公倍数である60年で干支が還ってくるため、60歳を還暦といいます。)
このルールで考えたとき、24年後の2049年の干支は「己巳(つちのとみ)」。なんだか、この2つの漢字すごく似ていてややこしくないでしょうか?スマートフォンやPCの整ったフォントで見ていれば間違えることはなさそうですが、手書きで伝えようとしたらややこしいのではないでしょうか。
さて、そんな「己」や「巳」を使った四字熟語に「已己巳己(いこみき)」と「巳己巳己(みこしき)」というものがあります。
已己巳己(いこみき)は已・己・巳の3文字がとてもよく似ていることから、「互いに似ているもの」を表します。巳己巳己(みこしき)は巳・己の2文字がとてもよく似ていることから、「互いに似ているもの」を表します。
つまり、已己巳己と巳己巳己は形が已己巳己であり意味も巳己巳己であるということですね。
……こんなややこしい四字熟語を2組もつくる必要があったのかと感じるのは私だけでしょうか。
例年、十二支コラムが長くなってしまっているように感じます。12年に1度のことですし、その年の十二支についてどうしてもたくさん言いたくなってしまうのです。
ですが、これ以上続けても「蛇足」にしかならなさそうなので、ここらで今回は終わりにさせていただきたいと思います。
2024年は私自身初めての経験をたくさんいたしました。2025年もさらなる躍進をしながら、最後まで油断することなく詰められるような1年にしていきたいと思います。
これからの1年も皆様に幸多からんことを願って。
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